ヤマトタケルと伊吹山

ヤマトタケルは、今から約2千年前、古代日本の皇族で第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。熊襲征討、東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄です。日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命と表記されています。

古事記によると、今から2千年ほど前、東征で多くの荒々しい自然の神々や蝦夷など服従しない人々と対峙し勝利してきた日本武尊は、尾張の地で美夜受比売(ミヤスヒメ)と結婚し、そこで伊吹山荒ぶる神がいると聞きその荒神を退治し伊吹山に向かいます。ただ、日本武尊は「この山の神は徒手に直に取りてむ」と草薙の剣を姫に託して持っていきませんでした。そして伊吹山の中腹(三合目の高屋辺りと伝えられる)で白い大きな猪と出会います。日本武尊はこの白猪を「伊吹山の荒神の使いの者」と思い、「今殺さなくても帰りに殺してやろう」と大きな声で威嚇しやり過ごしました。実は、この猪こそ伊吹の荒神自身だったのです。荒神は日本武尊の侮った言葉に怒り大氷雨(雹あるいは大雨)を降らせ、日本武尊は雹に打たれて体力を激しく消耗し命からがら下山します。そして、伊吹山の麓に湧き出る清水(関ケ原町の玉倉部の清水)のもとで休みようやく正気を取り戻しましたが、三重県亀山市の能煩野(のぼの)の地で亡くなります。この地でお墓が作られましたが、日本武尊の魂は白鳥となってヤマトへ、さらに河内の方に飛んでいったと言われています。

日本中を平定した天皇の皇族である英雄日本武尊を打ち負かした伊吹山の神々。その物語は、古事記や日本書紀が編纂された奈良時代の人々が、東国への入口に聳える霊峰伊吹山を畏れ敬っていたことを物語っています。ちなみに日本書紀では猪ではなく大蛇の姿で現れています。

なお、各地に征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もあるようです。

 

  日本武尊像      白猪との戦いの跡地(三合目)の祠           山頂の日本武尊像

     山麓にあるモニュメント           山頂の白猪像     地元でつくられた白猪モチーフのストラップ         


伊吹山山岳信仰の展開

荒ぶる神が宿る伊吹山は古代の人からは畏れられみだりに山に立ち入らず遠くから拝んだ存在でしたが、奈良時代から平安時代に日本に導入された神仏習合の考えをもとに修行場をもとめて仏教の修行者が伊吹山に入りました。修験道の開祖役行者は白鳳2年(673年)弥高赤谷の峰に寺を開き、行基も弥高寺に足跡をしるし、白山を開いた泰澄も天平神護年間(765年)に弥高寺を再興しています。

中腹から山頂にかけて、行導岩(平等岩)、手掛岩、雨降岩、阿弥陀ヶ崩、地獄谷、蔵之内、不動の滝、弥三郎の岩屋などの修行場があります。伊吹山の山頂は「蓮上」と呼ばれ、山での修行の最終目的地で、広い山頂が神仏が坐られる「蓮華坐」だとされました。したがって、伊吹山信仰の中心的施設は山頂の「弥勒堂」で(現在山頂にある2つの弥勒堂のうち北側に位置するもの)、かつては多くの石塔や石仏が祀られていたと言われます。伊吹山の神を鎮めるため当初は山頂に鎮座していた伊夫岐神社が山麓に造られました。

伊吹山に本格的な山寺を作ったのは平安時代9世紀後半に活躍した三修上人です。先行して9世紀前半に神を鎮め薬師如来(病気を癒す仏様)を拝み、国を護る祈りを捧げる伊吹山護国寺がありましたが、三修上人は山頂に法相宗の本尊である弥勒菩薩を安置して山林修行場とし、中腹に薬師如来を安置するなど舎堂も整備され伊吹山を管理する山寺を拡大しました。この三修上人の活躍が認められ878年に伊吹山護国寺は国家が管理する(国家公認の)定額寺になりました。

また伊吹山は平安時代の初めには薬師悔過の修行の場として、比叡、比良、神峯、愛宕、金峯、葛木などの諸山とともに「日本の七高山」の一つに数えられました。

その後、伊吹山護国寺が発展、展開して山中の各尾根に所在する弥高寺、太平寺、観音寺、長尾寺の通称伊吹山四ヶ寺が成立し、いずれも護国寺を名乗りつつも共存状況にありました。伊吹山信仰の重要な社は、伊吹大神を伊吹山寺の護法神として祀る「伊夫岐神社」と、登山道がその境内から始まり、大乗峰斗藪(だいじょうほうとそう)と呼ばれる山頂を目指す修行の最初の聖地である一宿(いちのしゅく)としての「三之宮神社(三宮社)」(ちなみに山頂の弥勒堂を一之宮(上宮)、磐座がある二合目のシャクシの森を二之宮(中宮)、そして山麓の社を三之宮とする説が有力)ですが、この両社の祭礼、遷宮などの神事、社務がこれら四ケ寺で協力して行う二社四寺のよる伊吹山の一山組織が成立していました。

  伊吹山山岳信仰の中心、山頂弥勒堂      伊吹大神を祀る伊夫伎神社        修行の始まの地、三ノ宮神社

   中腹の修行場、行導岩(平等岩)7合目辺り     手掛岩          伊吹山四ヶ寺の一つ、弥高寺の跡


戦国時代の山城

15世紀末の記録からしばしば弥高寺に京極氏が陣を張り、さらに浅井氏によって織田信長に対抗するため京極氏によって築かれた上平寺城とともに越前朝倉氏も加わって山岳寺院が当時最先端の山城として改修されました。これは、誰もが眺め、崇める近江第一の霊山聖地に居城を構えることでその権威を示し、神や仏に守護される城という意識をうえつけ、周辺の人々の拠り所を守る城として民衆の支持を得たものと言われます。 

【上平寺城(刈安城)跡】

北近江の守護である京極氏は長らく続いた内訌の後、1505年に日光寺の和議により京極高清が北近江の支配を確立し伊吹山山麓に平時の居館として館や庭園を、そして戦時の詰め城として中腹に山城を築きました。高清は1523年跡継ぎ争いの国人衆の争いに敗れ尾張に逃れ、守護の館としての機能を終えました。一方、山城は近江と美濃の国境警護の城(境目の城)として、織田信長に対抗するため浅井氏が朝倉氏の支援で改修されましたが、1570年堀秀村らの寝返りにより戦いの場となることなく廃城となりました。

山麓には居館跡、城下町跡、家臣屋敷跡があり、居館跡には会所などの建物に付属して戦国時代の池泉回遊式の武家庭園が残され、中島には巨大な景石が配され、山側の斜面地には滝組と考えられる石組も認められます。山城は伊吹山山頂から南に派生する尾根がやや緩やかになった痩せ尾根上に、一直線上に曲輪が配置されています。主郭は尾根最頂部の標高669mにあって背面には巨大な堀切があり尾根筋を完全に切断し、前面には東西3本の竪堀で斜面移動を封鎖するなど独立性を高めています。また伝二ノ丸の曲輪には、高い土塁に囲まれ常に横矢が掛かるように設計された外枡形虎口があり、手前の伝三の丸の曲輪との間には堀切が構えられ、さらには南端の斜面地には放射状の竪堀が確認できるなど、この山城は戦国期の到達点を示すものと言われます。

        山麓の庭園跡               放射状竪堀の一つ         最大の曲輪、伝三ノ丸跡

  高い土塁に囲まれた外桝形虎口       背景に伊吹山が聳える主郭        主郭の背後の大堀切と土橋


【弥高寺】

中世以降、伊吹山寺の中心的存在であった弥高寺は、標高700mの尾根上に最頂部に本堂があった本坊と呼ばれる東西68m、南北59mの平坦地がありこの本坊を中心軸に参道が配置され、その両側には今も測量調査では100前後の削平地(坊院跡)が確認されています。15世紀以降は京極氏が軍事的拠点、城郭としても活用し、明応4年(1495年)に京極政高が弥高寺から出兵し、翌年には京極高清が布陣するなどの記録があります。その後、織田信長と対峙した浅井氏が長比城と併せて刈安城を改修したとあり(信長公記)、隣の尾根の上平寺城とともにこの弥高寺も刈安城の一部として改修され、入口の大門跡は高い土塁や横堀が巡る桝形虎口の形状をなし、本坊の背後には山頂からの尾根を遮断する大堀切や連続竪堀群などが形成されています。

 

   桝形虎口状の大門跡              本堂のあった本坊跡          本坊背後の大堀切

                         数多くの坊院跡


円空さんと播隆さん

江戸時代には、生涯12万体造仏の祈願をたて、全国に約5,400体もの神仏像を残した作仏聖・円空さん(1632~1695)や、槍ヶ岳開山で知られる播隆さん(1786~1840)が伊吹山でその生涯を決定づける修行を行っていることからも、伊吹山がその時代も茶名な修験の山であったと言えます。

【円空さん】

円空さんは江戸時代前期の美濃国出身の天台宗寺門派のお坊さんで、廻国遊行しながら数多くの神仏像を作った作仏聖の一人です。

円空さん作の山麓の大平観音堂(春照)の十一面観音立像は180.5㎝の堂々たる大作です。この仏像について白洲正子氏は「十一面観音巡礼」の中で、「作者の息づかいがじかに伝わって来るような、迫力にみちた観音像」「おそらく素材に制約されたのであろう、窮屈そうに肩をすぼめて、宝瓶をにぎりしめ、鱗形の天衣をまとった長身からは、鬱勃とした精気がほとばしるようであった」と感想を記しました。背面の墨銘には「元禄二己巳年三月初七日」(1689・58歳)という年月日とともに、「四日木切 五日加持 六日作 七日開眼」とありこれによって堅い桜の木のこれだけの大きな像を、円空はたった一日で彫り上げていたことがわかります。

また、白洲正子氏は同じく背銘の和歌「おしなべて 春にあう身の 草木まで 誠に成れる 山桜かな」に思いを寄せ、「円空は花吹雪につつまれて、自然と渾然一体となり、桜の木の中に、十一面観音が現れるのをこの眼で見たに違いない。」そして「彼を制作に駆りたて、一日にして像は成った。」と記しています。

なお、円空さんは北海道の洞爺湖中の島観音堂に祀られていた自身作の仏像の背面に「江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 圓空」と刻書しており、伊吹山中腹の平等岩(行導岩)に関わりながら修行していたことが窺われます。

 

 観音像全体       お顔           背面の和歌の墨書           「四日木切…」の墨書


【播隆さん】

播隆さんは江戸時代後期の越中国出身の浄土宗のお坊さんで山岳修行をしながら念仏を広めた念仏行者です。

古文書から播隆さんが南宮山奥の院(垂井町)や伊吹山を拠点に活動していたころに、北アルプスの笠ヶ岳再興、槍ヶ岳開山を成したと言われています。現在分かっている播隆の伊吹山での修行場は播隆屋敷跡(上平寺越峠の東方尾根上)、八合目辺りの大谷峰の風穴、目醒の滝(関ケ原町玉)などで、平等岩などの修験の行場も巡っていたとも言われます。

        播隆さんが開山した槍ヶ岳(3,190m)               再興した笠ヶ岳(2,898m)